マインドフルネスからノーマインドへ:書評 『ヒマラヤ大聖者のマインドフルネス』相川圭子 著

手に取った経緯

最近とみに私自身が自分に対して、あまりに多動的な性格に辟易していました。
日々ルーティンで忙しい上に新しい事にどんどん手を出すタイプなのです。
もうすぐ年齢的な節目もあり、仕事のストレスで流される前に流れに棹さして置きたかったというのもあります。

とはいえ、今までティク・ナット・ハーン師の本を読んだり、色々なマインドフルネス系の思想に触れてきたものの、私の普段の生活は相変わらずバタバタしているので、過度な期待は元々持っていません。今現在お酒をやめていますので、瞑想する時間もあるだろうと今回この本を手に取ってみたというところです。

この記事のタイトルにも書いたように筆者の相川師はそもそもマインドフルネスはジャンルとして言葉を借りているだけで、「ノーマインド」をさらに良きものと掲げています。
元々の字義では「ノーマインド」は決して良い意味ではない気がするのですが、本書を読んでいく中ではこの言葉の定義に対して肯くことができる部分もあります。
体系的にテキストベースでマインドフルネスを掴みたい向きには必読と思われます。

私に特に響いた部分を抜き出して書きますので、是非本書を手にとって相川師の言葉に触れてみていただけたらと思います。

現代の資本主義のシステムが元々の人間の生物スケールを超えて暴走している中、1つのニュートラルな場を作るのに力を貸してくれると思います。

この書の前提として

人間の精神の内訳はいわば「魂と心」となっている。

心はコントロールできるもの。

魂が心をコントロールできるようにする、と書かれています。

「馬車の御者は手綱を操っていますが、そのようにあなたは、少しも休まずあちらこちらに向かおうとする、自分の心の御者になるのです」(028ページ)

前半は主に例えを用いながらも、抽象的に瞑想の素晴らしさと執着を手放すことの素晴らしさを説いていきます。

過去と未来の囚われから外れ、「今ここ」にフォーカスするという言葉はまさにマインドフルネスの定義に沿ったものと言えます。

現世の欲望とカルマ

日々湧き上がってくる欲望や望みなどは過去や過去生からのカルマに起因するとしています。仏教・ヒンディー色は強いと思います。カルマを否定はせず、生きる意味でもあると記されています。

カルマについての解説は多めですが、まとまって対峙したことのない私のような人間からするとちょっと難解というか、スッと入ってこない感じが否めません。

ある程度瞑想と併走して共有できる感覚なのかもしれませんね。

断捨離

「あなたが一生懸命そのときの幸せのために集めたものは、やがてごみになります。」(54ページ)

カルマには良いカルマと悪いカルマがあり、ごみとなるようなカルマもあるとのことです。

気付き・awakening

そもそも「気付く」というのは、心と離れているからこそ成せる高度なことです。当然ながら、目は、自分の目を見ることができません。(94ページ)

瞑想によって同一化の罠から逃れることができると言う事でしょう。

空・風・火・水・土 というエネルギー

何もない無の世界に、まず「空(くう)」が現れました。その空にすべてが含まれているのです。そして空から生じる波動によって「風」が現れました。風の中から「火」が現れ、さらに「水」「土」が現れました。(126ページ)

これらのエネルギーは現れ方が違うが、バランスが大事であるとのこと。

ヒマラヤ瞑想は、精神性を重視します。そして肉体の5つの元素も浄めバランスをとり

、真ん中の道を開きます。執着や欲望に翻弄されている心を浄化して手放しノーマインドにします。(150ページ)

息を吸う=生 息を吐く=死

命をいただくためには、まず「死」を経験しなくてはいけません。だからまずはしっかりと吐くことが大切です。吸う、吐くはセットであり、生と死もセットです。(158ページ)

読み終わって

著者の相川圭子師はヨグマタ(宇宙の母の意)というホーリーネームを持ったヒマラヤ大聖者とのことで、深い修行を長期に渡って修められたと書いてあります。

そのプロフィールや思想自体の大きさを考える時、この本のサイズの中にはまったく収まらないわけです。ですので、あくまでも1つの入り口というか、ヒマラヤ瞑想の世界の1つの小窓というか、コラムとして読むことになるのかな?という感想です。

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